海のもんとも山のもんとも…
1981(昭和55)年4月、脱サラした28歳の川瀬隆庸社長は「回盤堂」の看板を掲げてレンタルレコード店を開業します。
ところで現在、レンタルビデオ店といえば多くの方々が思い浮かべるのが「TSUTAYA(つたや)」ですよね。この「TSUTAYA」事業を手がける会社などのホールディングカンパニー「カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)」のウェブサイトなどによると、同社の増田宗昭社長が大阪・枚方市に喫茶店兼レンタルレコード店「LOFT」を始めたのが1982年。「TSUTAYA」の創業が翌83年ですから「回盤堂」の先駆性を実感していただけるのではないでしょうか。
「先駆性」といえば、スマートですが、関西弁で言い換えれば、まだ「海のもんとも山のもんともわからん」事業だったのです。何よりもレコードを貸すというビジネスをめぐる著作権への対応もまだ整理されていなかったのです。のちのち、この問題にめぐって川瀬社長に重大な転機が訪れますが、それは後述するとして、いよいよ大阪・帝塚山のマンション1階で「回盤堂」は営業を始めます。
お客さんの反応はどうだったのでしょうか?
川瀬社長に聞いてみると…。
「始めた、その日から5~6万円の売り上げがあったんやないですかね」
最先端の情報発信基地として
元喫茶店を改装して始めた約10坪の店は初日から盛況だったようです。
「当時まだ近所に帝塚山学院短大や大阪府立看護短大があって、そこの女子学生がけっこう来てくれて、それを目当てに坊っちゃん大学生が“すごいクルマ”で乗りつけてきてましたねぇ」
「もちろん、それだけやないですよ。僕自身、ウェストコースト・ロックやAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)といった洋楽が好きやったんで、まだ日本で発売前のアルバムを輸入盤業者から仕入れたんです。
そうしたら『あの店に行ったら新しいもんがあるで』って最先端の音楽情報がわかる店として評判が広まりました。輸入盤ですから、もちろん日本語の説明はありません。
業者からの情報も参考にして、全部の輸入盤に自分で日本語の解説を書いて付けました。これも好評だったんです」
新しいビジネスだったため試行錯誤の連続の手探り状態です。
川瀬社長は「TSUTAYAみたいな、お手本があったらよかったんですけどね」と笑います。
光の向こうに暗雲も
開店の翌年(1981年)2月に発表された寺尾聰の『ルビーの指環』が大ヒットします。
この曲が入ったアルバムが4月にリリースされたので「5~6枚を用意すれば大丈夫」と考えたそうですが、棚はいつも「貸出中」でした。
「20~30枚は必要やったんです。“お手本”がないので、当時はそんなこともわかりませんでした」
音楽出版社のウェブサイト「CDジャーナル」によると、このLPアルバム『Reflections』は165万枚の売り上げを記録したそうです。
その後、アナログ・レコードに取って代わるCDの発売開始は翌年の82年10月(出典:一般社団法人 日本レコード協会ウェブサイト)で、『Reflections』はアナログ・レコード時代では最も売れた邦楽LPアルバムだともいわれているようです。
もちろん返却が遅れる客も少なくなくて「『早(は)よ返せ』と電話しまくった」そうです。今のような携帯電話がない時代でした。パソコンも普及していなかったので顧客管理も大変だったと思いますが、当時は現在のように技術が発達することも想像できなかったでしょうから、不便だという感覚もあまりなかったかもしれませんが…。
そして1年が過ぎました。前回、書いたように土壇場になって銀行の融資が受けられなくなったため、店の敷金は大家さんに支払いを待ってもらっていました。京都で休業したレコード店から借りたかたちになっている商品の精算もありました。それぞれの約束の期限がやってきましたが、危ない綱渡りに見えた川瀬社長の挑戦は成功しました。
「大家さんには敷金を払い、レコードも当初は借り手がついたら買い取り、残りは返品する約束でしたが、すべて買い取らせてもらいました」
商売は順調で、その後「回盤堂」は大阪府下で直営の4店、フライチャイズ形式の4店の計8店となったのです。
しかし、すべて順風満帆で前途洋々というわけではありませんでした。レンタルレコード店が社会に定着するに従って問題点も明確に浮き彫りになってきたのです。
『昭和・平成 現代史年表』(小学館)の「昭和56年(1981)」の「社会」の項には「10.30 レコード大手13社、貸しレコード店など4社を著作権侵害で訴える」とあります。
「回盤堂」は、この4社には入っていませんでしたが、もちろん他人事ではありませんでした。